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私の名前は渡若造

>私の名前は渡若造>

(特別版) 第90回 『有名人との出逢い』

前回の「古賀ゴルフクラブの想い出」の中で、古賀ゴルフクラブにおける有名人との出逢いに触れました。複数の読者から「よく有名人に逢いましたねえ」との感想が寄せられました。私はこれまで数多くの有名人に出逢っているので、古賀ゴルフ以外での出逢いを振り返ってみます。

①プロゴルファー福島晃子は私の次男と幼稚園が2年間同じクラスでした。彼女の父親は当時の川崎大洋ホエールズの捕手で、右翼の高木選手のお嬢さんも同じクラスにいました。福島さんはその頃からあの体形でした。

②KBCオーガスタトーナメントを開催していた福岡県の芥屋ゴルフクラブ(当時は九州カントリークラブ芥屋コース)の茶店であの鉄腕稲生和久さんに出逢いました。引退してずいぶん経っていたので肥満体で汗ビッショリでした。この時は声をかけ、少しゴルフ談義をしました。<稲生和久、1937年生まれ、2007年70歳で悪性腫瘍で死去、通算276勝137敗、防御率1.98>

③出張で水戸に行った帰りの特急列車の中で、日焼けしたボーイッシュな髪形の女性が前を通りました。女子プロの日吉久美子さんでした。日立市で行われたトーナメントの帰りのようでした。
<日吉久美子、1964年生まれ、1993年に賞金獲得額53.919千円で5位>
大阪へ行く新幹線の中で、背の高い美人が私の隣の席に座りました。伝票を出して経費を計算していました。誰かと思い、ゴルフバッグを見ると〈M・INABA〉の文字がありました。後で調べると稲葉真寿美プロでした。東京よみうりカントリークラブのワールドレディスの帰りでした。
<稲葉真寿美、1951年生まれ、名古屋市在住、生涯獲得賞金80.420千円>
それ以来、日吉プロと稲葉プロの成績をチェックしたことは言うまでもありません。

④スーダラ男の植木等さんを大相模カントリークラブで何度も見かけました。彼は当クラブの会員でフェローシップ委員をしておられました。同じく当クラブでは森昌子さんと結婚する前の森進一さんに出逢いました。

⑤10年程前に、多摩カントリークラブで私の後ろの組は何と吉永小百合さんでした。色白の美人で、振り返って見ているとバンカーショットが上手かった。

⑥大昔ですが、大阪の茨木カントリークラブで私がスタートする際に杉原輝雄プロはバンカーショットの練習を始めました。
ハーフ終わって来ると彼はバンカーショットの練習を止める時でした。後半出かける際は彼はグリーン周りの練習を始める時でしたが、私が18H終えて戻ると彼も練習を終えました。1か所で2時間以上練習する体力と根気に驚いたものです。
<杉原輝雄、1937年生まれ、74歳で前立腺がんのため死去、生涯獲得賞金7億4百万円、新宝塚カントリークラブ内に杉原輝雄記念館がある>

⑦三重県の四日市カントリークラブで、練習ラウンドしていた結婚前の樋口久子さんに逢い声をかけました。
東京よみうりカントリークラブのコニカワールドレディスを観戦したときは、渡米前の岡本綾子プロとローラ・ボーにつきましたが、岡本プロの女性離れした豪打に比べ、ツイギーのような細身のローラ・ボーは非力で打ち上げのホールではボールが上がらなかった。後に岡本プロは渡米して賞金王になりました。
東名カントリークラブのゴルフダイジェストトーナメントでは尾崎将司プロがスポーツカーで到着した時に出くわしましたが、「ヨッ大統領」の声がかかりました。当時のジャンボは威圧感抜群でした。

⑧賞金王になったことがある村上隆プロの自宅は私の住居の近くでした。
10数年前、彼は私と同じ建物に転入して来たのです。駐車場で度々会うので話をする関係になり、青梅カントリークラブでの多摩シニアオープン(第60回参照)では彼に付いて回りました。数年前に郷里の静岡県に転出する際は、卓球仲間だった奥様が挨拶に来られました。

⑨私は50歳の頃、左手が痺れたので東京女子医科大学病院の診察を受けました。結果は運動不足で大事ではなかった。会計のために待っていると私の前に「タケシタケイコさーん」と呼ぶではないか。見るとあの竹下景子さんでした。続いて出口で見かけた人がいる!と思うと野坂昭如さんでした。
<野坂昭如、1930年生まれ、2015年85歳で死去、作家・歌手・作詞家・タレント・政治家>

⑩よく通っていた渋谷のうどん屋?居酒屋?で食事をしていると後ろで大きな相撲取りが鍋料理を食べていました。背広姿の後援者と思しき人と浴衣姿の付き人の3人です。大きな人は誰かとみると現役横綱の大乃国でした。びっくりする程の大量の料理が出ていた。

⑪福岡時代によく通った居酒屋で太田幸司さんが隣の席にいました。一人で来ていましたが、何年経っても人気があるもので女将や仲居さんがサインを求めていました。
<太田幸司、1952年生まれ、1969年夏の甲子園の決勝戦で27回一人で投げ抜き、一躍脚光を浴びた。近鉄に入団。元祖甲子園アイドル>

⑫極めつけは福岡の中州の高級料亭です。お客さんの接待で行っていましたが、帰ろうとすると20数名の仲居さんが騒いでいるのです。見ると人気絶頂期の若花田と貴花田(後に若乃花・貴乃花)の兄弟が大関に昇進した直後で彼らも帰る時でした。一緒に人混みを出ましたが、私と2人は1メートルの至近距離。2人は当時はそれ程大きく感じなかった。

 

 

令和元年11月7日  渡 若造

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