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加賀屋ゴルフ20周年史 独りごと

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2015年12月11日

思い起こせば20年前、前身である有限会社加賀屋ゴルフを立ち上げた時、スタッフは私を含め3名であった。その時の私のゴルフ場の知識は今の半分以下であったであろう。これではいけないとその時からゴルフ場探訪を始めた。当時、私が入会していたゴルフ場は千葉の房総カントリー1箇所だけだった。が、1箇所だけではあったが、入会していることで、メンバーが抱く気持ちというものは理解していた。

ゴルフが好きで、連日のようにゴルフ練習場通いをする日々であったが、更なる上達を目指した私は、飛距離アップのために、スポーツクラブに入会した。そこで、2年間、私はエアロビ、水泳、筋トレと体を鍛えた。お腹が出始めた体は、かなりシェイプアップされた。会社を起こして、私の会員権は1箇所から増えて数箇所となった。そして、当時は決して強いクラブではなかったこともあったからだが、2000年(平成12年)10月にはアクアヒルズのクラブ選手権をあれよあれよと勝ち残り、幸運にもなんとクラチャンになる事が出来た。ラッキー以外のなにものでもあるまい。

翌2001年(平成13年)2月には、スポーツクラブで知り合った永光の協力の下、加賀屋ゴルフのHPを立ち上げた。
当時のゴルフ会員権業者のHPは、売り買いの相場を乗せているものが主流であった。当時の私は売買にすぐ結びつく為の手段としてのHPを考えていたが、この業界をあまり知らなかった永光と協議した結果、ゴルフの楽しさや会員権の持つ素晴らしさを併せて発信できるHPを目指し、始動し始めました。
そんな折、私は週に1度ずつ自分の思う様を書き綴ってみようと思い『独りごと』なるコーナーを作ったのである。更には、そうだ、どうせならゴルフ大好き人間である自分のゴルフ日記をも綴ってみようとなる。そして、私は、この頃から結構無理をしながらも会員権貯金を始め出したのである。

最初のうちは、この両コーナーに今ほどの時間を割くこともなかったので、会社立ち上げと同じ19時には店を閉店していた。ちなみにこの頃のスタッフは私を含めて5名だった。2002年(平成14年)夏には、私とワイフの間に過去のHPに度々登場した男子が誕生する。そして、一緒に仕事をしてくれていたワイフは第一線を退き、新たに池田が加わった。加賀屋ゴルフで購入して頂いた方々の懇親会第1回加賀屋杯を行ったのはそんな2002年(平成14年)の10月だった。この年の12月18日には株式会社加賀屋ゴルフと組織変更も行った。 そして、会社に転機が訪れたのは、2003年(平成15年)の7月のことだった。

2003年(平成15年)7月、会社創設時から頑張ってくれていたスタッフが、実家に帰省中に、原因不明の病気に見舞われ、長期入院となった。緊急事態の為、子供が生まれて1年も経過していなかったワイフであったが、おじいちゃん・おばあちゃんに子供を預けて、会社に出勤することとなった。そして、私は、そのスタッフが担当していた案件を全て引き受けたので実質2人分の営業の仕事量をこなさねばならない状態となったことから、私の出社時刻はどんどん早くなり、退社時刻はどんどん遅くなった。
が、8月末、スタッフは無事退院し、社業に復帰したことから、私はこれまでより少し時間に余裕が出来てきた。そして、この時間を独りごとの作成時間に費やすことで、これまでの独りごとがより充実した作品に仕上がるようになった。 そうそう、この年の4月からゴルフフレンドの協力を仰ぎ、“芝先案内人”のコーナーが出来上がり、加賀屋HPの人気コーナーとしてスタートを切った。また、同時期に癒やし系・BUN日記もスタートした。
そしてこの2003年(平成15年)からHP上にニューコンテンツを取り入れ、会員権を購入する方の役に立つHP創りに主眼を置き始めます。また、お客様から実際に行われた売買価格が知りたいとのリクエストからお金ちゃんマークを作り、早速成約価格を掲載するように致しました。そして、10年以上経った今も尚、お金ちゃんマークを添付継続し、どこにも他に類を見ない営業スタイルを貫いてきています。
2003(平成15年)以降、『生声』『会員になっての1年後』『お客様の購入動機』とコンテンツを増やして行きました(ただ、これらは最近ズボラ傾向にありご迷惑を掛けていますが)。
このように2003年(平成15年)からの加賀屋HPは、単なる会員権のHPから少しステップアップを見せたと私は思っている。
2003年(平成15年)は、振り返ってみると、このように加賀屋ゴルフにとっては激動の年だったのであるが、同時に会員権業界にとっても大きな変化を見せた年だった。春先に下げどまり感が漂い始めたが、夏を過ぎ、秋になると突然、東京よみうりの会員権に大きな変化(上昇)が見られ、やがてその動きは、小金井や戸塚に波及し始めた。入社以来、会員権は上がらないものと決めつけていた感がある弊社スタッフも見受けられていたが、2003年(平成15年)は、そんな地に落ちていた会員権が再び脚光を浴びる分岐年となったのである。

2004年(平成16年)は年始から高額会員権が上昇をし始める。この年の11月には50万ラウンド達成記念の加賀屋杯が開催され、巨大看板が京カンに登場。
また、この年から私の独りごとにも変化が見え始める。少しずつ長文になり始めたのでした。当然、そうなると制作時間は自ずと掛かり始める。と同時に、これまで常に社内ではトップセールスマンだった私だったが、営業の数字は落ち込み始めた。営業する時間がなくなってきたからである。私の営業数字は落ちていったが、反対に各営業スタッフの数字は伸びていった。 同年6月には『私の名前は渡若造』の連載が始まり、この年『加賀屋よもやま話』のコーナーも出来上がった。この頃ようやく1日平均クリック数が1000件を越えるようになった。
ゴルフに行く回数が格段に増えたということはないが、微増の状態が続き、ゴルフ日記も以前より充実度は増していった。
それに呼応するように、加賀屋ゴルフを訪れるお客様の数も増え始めた。私は、お客様が喜ぶ会員権選びのお手伝いを進めるための勉強を更に深く行い始めるようになっていった。

2005年(平成17年)の始め、ズンズンと会員権が動き出したのであったが、11月の声を聞くや否や、中堅どころの会員権の値段が急激に反騰しはじめた。特に私が驚いたのは、経営が三井物産から東急不動産に変わった鶴舞であったが、なんと5ヶ月で190万円だった会員権は、なんと倍の380万円に急騰したのである。
そして、10月には京カントリーで新入会者の方々ばかりを集めて懇親会を開催した。
また、この年の12月、お腹を抱えて笑う作品の数々が取り揃う、“京カンの教官、目土盛造”がスタート。

2006年(平成18年)には、会員権はほとんどの全銘柄が上昇し、私たちは好景気に色めきたった。ミニバブルの様相で、東京都市部の土地の値段はうなぎ上りとなっていった。
3月には100万ラウンド達成記念チャリティーコンペ・加賀屋杯を開催。88名の参加者を得る。
そんな年の夏、加賀屋ゴルフにとって、重大な出来事が勃発してしまう。
それは、いよいよ明日からお盆休みに入るという8月10日に起きた。場所は千葉カン・野田コースにおいて、加賀屋ゴルフ社長の私前田信吾がバンカー内に転げ落ち、なんと右足首を骨折してしまったのである。そして、出来事から、このコツコツ(当時は骨骨)日誌が始まったのだったが、周りの人からは「転んでもタダでは起きない人ですね」の言葉を頂戴してしまう。
そして、2006年(平成18年)には、会員権購入時におけるバイブルと私が考えているアンパンマンの“ゴルフ再入門”のコーナーが始まったが、購入希望者の心理描写が描かれており、私もフムフム・なるほどなるほどを連発しながら連載を楽しんだ。
ゴルフ再入門は完結したが、このコーナーは会員権を買う人にとっての心強いバイブルであろうと今でも強く思っている。
同年11月には、弊社社屋において、弊社顧客の9名の方々にお集まり頂き、会員権業者主催の座談会を初めて開催致しました。

2007年(平成19年)になっても依然として相場は強含みであった。3月には2005年(平成17年)秋に続き、京カントリークラブで2回目の新入会者の方々だけの懇親会を開催。なかなか好評でもあったので、6月には上総モナークでも入会者懇親会を開催。また、9月には人気コーナーの花屋のオッチャン奮闘記が始まりました。
この年、我々に大きな衝撃を与えたのは4月に発表された総武都市開発の破綻のニュースだった。そして、秋頃から会員権に蔭りが見え始める。が、10月から始まったきみさらずゴルフリンクス(旧真理谷カントリー)の募集は弊社でも大変好調でした。これは間違いなく最高の募集!と思い、イの一番に入会した私の会員ナンバーは0001番でございます。

2008年(平成20年)も加賀屋ゴルフは好調は維持し、7月10日は200万ラウンド達成記念・チャリティイベントを実施しました。そして、なんとそこで目土盛造さんが自身初となるホールインワンを達成されたのでしたが、あのホールにボールが消えた感激は今も忘れられません。
が、この年の9月に起きたあのリーマンショック以降、常に右肩上がりの成長を続けてきた加賀屋ゴルフの業績が急激に傾きだしたのでした。私は、この悪い状態から脱皮するためには何かしなければならない。で、突如、絶対に止めないと言い切っていたタバコを10月6日の朝5時50分、止めたのでした。しかしながら、悪いことは重なり、この年の11月3日にまたまた剥離骨折をしてしまうのでした。原因はフットサルでキーパーをしていて横っ飛びした時に肩を打ったことからでした。

2009年(平成21年)9月、民主党に政権が映りました。そして、その9月、総武の理事長杯チャンピオンとなったまっちゃんの“あれよあれよとチャンピオン”が開始されました。新政権に対しては期待感があり、最初は良さげな船出のように感じました。リーマンショック時から比べると会員権も上向き出して、やれやれで年末を迎えました。この年、12月には私が幼少時から喜んで食していたアルバのレトルトカレーの販売を加賀屋ゴルフでも開始致しました。それにしてもアルバカレーはホンマに美味いです。

2010年(平成22年)、ゴルフが2016年のリオデジャネイロオリンピックから正式種目になることとなりました。しかしながら、そうゴルフ会員権は盛り上がりを見せず仕舞いでした。
この年の2月25日の木曜日発売号の雑誌ALBAにて前田信吾というコラムニストが1頁ものの連載筆者として誕生しました(笑)。タイトルは“イチゼロ年代のゴルフ場選び”でございます。早いもので、来年2月まで続けたとしたら丸6年が経過することになります。ヒェーでございます。
また、この年の6月30日には300万ラウンド記念加賀屋杯が開催されました。参加資格は加賀屋縁の方のみにさせていただいたので、参加人数は減ったのですが、今まで以上に有意義な加賀屋杯になったと思いました。

2011年(平成23年)は、会員権業界にはとてもユニークな発表が年始にPGMからなされました。2011年名義変更入会プランがそれでした。名変諸費用を減額させることで、会員権を購入しやすい環境を更に整備するというもので、画期的なことでした。
この年の2月22日にはKGKの組合創立40周年記念祝賀会が開催され、40年史も発行されました。が、その祝賀会の17日後の3月11日にあの東日本大震災が起きたのでした。多くの方々の尊い命が失われ、しばらくはゴルフどころではない有り様でした。当然ながら経済界も大打撃で、日経平均株価はついに1万円を割り込みました。思い返すにこの民主党政権時はホント大変な時期でした。独りごとでも何度も書きましたが、会員権相場は大きく崩れ、商いが大きく減少し、まさに加賀屋ゴルフも氷河期のような状態でした。が、自身はこういう時こそと思い、2011年(平成23年)は必死にゴルフに勤しみ190日という記録を作りました。また、4月にはまこっちゃんのゴルフの本棚が始まり、8月にはアラフォー3兄弟が、そして、11月にはオーストラリア支局長メルウェイのコーナーが始まり、12月にはぽっちゃり王子の人生“簿”が始まりました。

2012年(平成24年)は、4月19日に400万ラウンド達成記念加賀屋杯が開催されました。で、その先、3月には“前田信吾と行くゴルフ合宿INメルボルン”を敢行し、縁の方々とメルボルンの超高級ゴルフクラブであるロイヤルメルボルン、キングストンヒース、ハンティングデールでプレーを致しました。
そして、この年、6月25日早朝、右耳が突発性難聴になり、私は翌日から入院したのでした。この時、入院がすぐに出来たこともあって奇跡的に耳が聞こえるようになったのですが、全ては弊社HPをご覧いただいていた縁の方々のお蔭でありました。
この年、会員権はどん底状態になり、ほぼ全てにおいてこれまでの最安値を更新していた。で、そんな11月14日、国会で、時の総理大臣野田首相が定数是正を条件に衆議院を解散しても良い!という話を述べられたのでした。やったー、これで会員権が動くはず!そして、案の定、会員権はググーンと上昇し始めました。当然ながらも、12月の総選挙では自民党が大勝利致しました。

2013年(平成25年)は、年始から会員権は上昇致しました。私はとにかくやれやれといった感じでした。この年の5月のゴールデンウィークでは第2回目となる“前田信吾と行くゴルフ合宿INメルボルン”を縁の方々と敢行しました。そして、その合宿の甲斐あってか前田信吾は生涯初となる関東倶楽部対抗競技会に出場したのでした。もう、心臓バクバクどころではありませんでしたが。そして、節目となる500万ラウンド達成記念加賀屋杯が日本一の倶楽部小金井で8月29日に開催されました。
尚、この年の12月に発表された税制改正で、ゴルフ会員権の損金計上は2014年(平成26年)3月31日で終了と報じられました。また、2013年(平成25年)の4月7日(日曜日)放送分のテレビ埼玉のビッグスギの『STEP UP ゴルフ』再放送分から加賀屋ゴルフのテレビコマーシャルがテレビから流れるようになりました。そして、この年、電車でGo!るふが始まりました。

2014年(平成26年)は、消費税が8%になった年でした。これまで会員権は税込表示をしていたのですが、これを機に、KGKは4月以降は税別表示をすることを決定し、相場価格をこれまでの(税込)から(税別)とする表記に改めました。この年、長年勤務してくれていた正木が誠に残念ながらも体調不良から休養することになりました。その際、正木からは『体は会社にあらずとも陰ながら加賀屋ゴルフを応援し続けたい』というありがたい言葉を貰い感激したのをよく覚えています。この年の6月末、圏央道の未通部分が開通し、東名・中央・関越道が繋がりました。これにより、神奈川県から埼玉県へ、また、埼玉県から神奈川へが便利になりました。そして、この年平成生まれの石井が入社し、5月にメンバーライスのコーナーがスタートしました。

そして、2015年(平成27年)は20周年を迎える年となりましたが、7月27日に龍ヶ崎において600万ラウンド達成記念加賀屋杯が開催されました。しかも、此度は会場の龍ヶ崎を125名で貸し切って行われたのでした。500万は小金井で、そして、600万は龍ヶ崎を貸し切ってですから、とても感慨深いものとなりました。また、5月にはアンの女子ゴルフ研究室の連載が始まりましたが、弊社HPでは女性のライターは初めてだっただけに感慨もひとしおでした。
そして、そして、そして、今日12月11日を迎えました。今日、この日勤めていますのは、中嶋、永光、池田、石井、田上、石渕、そして不肖前田信吾でございます。

以上を加賀屋20周年史として独りごとに記させて頂きました。